世界 の 愚 将

Add: awolodo96 - Date: 2020-12-07 15:40:07 - Views: 3903 - Clicks: 1519

竹内涼真主演の極限のサバイバルラブストーリー「君と世界が終わる日に. さて、ここまでで牟田口がインパール作戦中も遊興に浸っていた、という一次史料を確認できなかったことは前にも述べた。しかし、いくつか気になる伝聞が伝わっている。 この記述については、ブログ記事でも言及がなされているが、出典や証言者が不明であり、巻末の参考文献一覧も膨大で出典を特定できなかったという。筆者も出典の特定を試みたが、参考文献の中には国会図書館に収蔵されていないものもあり、結局噂の出典を特定できなかった。 しかし、「麗人」と思われる牟田口寵愛の慰安婦の存在について、噂ではない当事者の証言を見つけることが出来た。メイミョウにあった第百二十一兵站病院に勤務していた兵による証言である。 筆者が知る限り、牟田口と関係があった女性についての、唯一の一次的な証言である。この『ビルマ戦陣回顧録』は、メイミョウにあった第百二十一兵站病院勤務者の戦友会である、北カ会メンバーがビルマ勤務時を回顧した文集だ。中井は高級将校にそれぞれついている女性について、下級将校に対する態度が横柄であったと回想しているが、上記証言もそれに合致している。 しかし、この証言は、医学的な面で不可解な点が多い。子宮外妊娠の治療として、考えにくい手術を行っているためだ。子宮外妊娠は多くの場合卵管で発生するため、掻爬による治療は期待できない。また、子宮外妊娠なのに、子宮を切開する帝王切開を行うとも考えられない。筆者は医療関係者2名と相談し、考えられるシチュエーションを検討したところ、概ね次の解釈で一致を見た。 1. この広中氏の仮説であるが、これも疑わしいと考えられる。というのも、これまで挙げてきた証言からも判るように、牟田口、第15軍、ビルマ方面軍の醜聞を批判する記述の結構な数が、参謀や軍医といった、前線ではなく後方にいる階級の高い軍人、あるいは記者といった情報に通じた人物だ。むしろ、前線の兵クラスの回想で、具体的な高官の醜聞エピソードがある話は見つけられなかった。 また、先に引用した『ビルマ戦記』の中に、「私がカレニン山系の山越えのとき、恥ずかしい思いで聞いた風聞」という一文がある。これは、後が前線から山越えをして司令部に戻る時、兵士達との雑談の中で出た次のようなものだ。 この風聞はほぼ正しい。後がこの話を兵士から聞いたのは、恐らく5月中旬のことだ。4月23日にビルマ方面軍司令官の木村兵太郎中将は飛行機でラングーンからモールメンに逃れたが、これは方面軍より上の南方軍に無断の行動であった。方面軍首脳が飛行機で逃げ出した後、日本の傀儡政権であったビルマ国のバーモ首相と、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースは陸路で逃れているが、ビルマ方面軍は約束した車を用意せず、ビルマ国のバーモ首相以外の大臣は徒歩での脱出を余儀なくされている。娘子軍の部分は前述した通りだ。ラングーン脱出で醜態を晒した木村だが、5月5日付けで大将に昇進した。まさに風聞の通りだった。 方面軍参謀だった後すら把握していない情報を、前線の兵士達はなぜ知っていたのだろうか。これは、英軍の諜報網が日本軍の動静をかなり正確に把握しており、醜聞の部分をそのまま宣伝放送に流していた可能性があるのではないか。これを裏付けるものとしては、小宮はラングーンの翠香園がスパイの注視の的であったことを記している。また、高木の『抗命』では、第31師団の佐藤師団長は方面軍司令部の乱行ぶりを英軍戦車の放送で知ったという記述がある。他にも、ビルマ方面軍作戦主任参謀だった安倍光男少佐は、秘匿しているはずのこちらの部隊名を言い当て、日本軍の他の部隊の状況を放送してくる英軍戦車に遭遇している(安倍『参謀』(富士書房))。 広中記事への反論を行ったブログ記事では、他の戦場で連合軍の宣伝ビラが目立った効果を与えていないのに対し、ビルマ方面だけ顕著な成功を収めているのは、それを信じる素地が元々あったからではないかと推測している。筆者はさらに言えば、英.

世界の名将愚将列伝 第9回「乃木希典」 乃木希典は日露戦争において「難攻不落」と謳われた旅順要塞を攻略したことから、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれたました。. 年7月、筆者は初の牟田口廉也の評伝である『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を刊行した。牟田口は、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)下の1944年3月、第十五軍司令官として行われたインパール作戦を計画実行した人物として知られる。こんにち牟田口は. アジア, 戦国時代, 日本 今川氏真, 今川義元, 凡将, 息子, 愚将, 愚息. 山本五十六の愚将ぶり 世界 の 愚 将 2 ミッドウェー海戦. パ・リーグの監督を査定してみた【年版】 (AERA dot. 名将か愚将か. 世界の名将愚将列伝 第6回「ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット~フランスに生まれながら何故かスウェーデンの国王になった男」 Deta:. 1については、筆者も牟田口がインパール作戦中も宴会で芸者を呼んで大騒ぎしたという一次史料を見つけることが出来なかった。しかし、牟田口が率いた第15軍司令部の将校が、インパール作戦中やそれ以外でも頻繁に料亭を利用していたことは、一次史料からでも伺う事ができた。それが火野葦平の従軍手帖だ。 火野葦平は日中戦争の頃から著名な戦記作家であり、インパール作戦にも従軍して記事を残している。火野は従軍作家であり、戦時の報道統制下の記事には、検閲を経ていて軍に不都合なことはまず載らない。しかし、火野の死後に発見された20冊の手帖の中には、インパール作戦従軍中に記した6冊の手帖があった。これは検閲を経ていない当時の生の記録であり、一次史料に準じるものとして扱える。長らく閲覧が難しい状態にあったが、年にインパール作戦部分の翻刻版が集英社から出版されている。 それによれば、1944年5月8日に火野は第15軍司令部のあるメイミョウ(現ピン・ウー・ルウィン)を訪れている。メイミョウはビルマ(現ミャンマー)の冷涼な避暑地として知られ、英国のビルマ総督府高官の別荘が並び、「ビルマの軽井沢」「ビルマの箱根」などと形容された風光明媚な場所で、戦時中にここを訪れた日本軍人の多くがその美しさについて書き残している。そして翌9日に次の記述を残している。 翌10日にも次の記述がある。 9日の記述からは、料亭「清明荘」では、酒に日本人女性(芸者)を伴うサービスがあったと伺える。10日の記述に登場する橋本参謀は、牟田口の個人的お気に入りだった橋本洋中佐でほぼ間違いないだろう。牟田口は天長節(昭和天皇の誕生日)までにインパールを攻略するつもりだったが、この頃になってもそれは叶っていない。この頃には第33師団の柳田師団長は補給に限界が来たとして牟田口にインパール作戦の中止を求め、第15師団の山内師団長はマラリアを発症して指揮が取れなくなるなど、前線は窮状の中にあった。 もっとも、この記述ではインパール作戦の最中ではあるものの、牟田口は登場しない。この頃、牟田口はより前線に近い戦闘司令所で指揮を執っており、メイミョウにはいなかった。しかし、第15軍首脳が料亭に出入りしていた事は裏付けられる(頻度は定かではないが)。 ここで名前が出た清明荘。どんな料亭だったのだろうか? 現代の我々が抱く料亭イメージは、高.

当時は超音波検査が無いため、最初の診断で正常な妊娠との判別がつかなかった可能性 2. 世界の名将愚将列伝 第4回「ベリサリウス~ユスティニアヌス大帝に仕えたサラリーマン武将の悲哀」 | 貧乏塾長のブログ. · gooニュース。スポーツ写真。名将か愚将か.

世界最低の将とは簡単に言うと現代の官僚と同じで、日清日露の戦いで日本を世界の列強とした当時の将とは違い、昭和の将官は既に軍事官僚化しており自己保身と組織の存続が第一で、国家の危機を回避する事よりも自らの面子が潰れる事を善しと出来. 世界の名将愚将列伝 第5回「牟田口廉也~どんな右翼でもコイツだけは擁護できないと口を閉ざしてしまう日本軍の愚将」 Deta:. 久々の名将愚将列伝です。 今回採り上げるのは低視聴率で苦しんでいる(笑)、今年の大河ドラマの主役、平清盛さんです。. 久しぶりの世界の名将愚将列伝です。 今回取り上げる人物は、恐らく日本人ならば名前を知らない人はまずいないでしょう。 あの織田信長です。 桶狭間の戦いで当時最.

三村 文男『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉論」の虚妄を糺す』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約5件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。. 今回集めた史料や記述の中で、同時代に作成された一次史料と言えるものが火野の取材手帖しか見つけられなかった。だが、そもそも司令部の高級将校の遊興について、一次史料はあまり残されていないのではないかと考える。以下にその理由について述べる。ラングーンの翠香園について、中井は次のように書いている。 また、後は戦後に聞いた話として、次のように残している。 つまり、高級将校の料亭通いの原資は、機密費や横領による資金であり、表沙汰にしたくない、記録に残したくないものだったということになる。一次史料に残りにくい類の情報なのだ。 しかし、ここまでの記述は、料亭を利用していない側の、一方的な記述といえるかもしれない。だが、料亭を利用していた側の弁明も残っている。 この記述は、ビルマ方面軍麾下の第33軍の第49師団の作戦主任参謀だった菊地重規によるものだ。インパール作戦より後の話だが、さらに状況が悪化しているにも拘わらず、料亭は盛況だったことがわかる。菊地のこの証言は、ビルマ方面軍の高級将校が料亭を頻繁に利用していたことを認めているものだ。 また、ここで辻政信の名前が出ている。辻は牟田口と並んで悪名で知られる陸軍軍人だが、個人としては料亭や芸者遊びを嫌う硬派で、上海で日本軍が遊興に浸っていた「料理屋」に火を点けたことでも知られており、菊地の「彼なら怒って火をつける」という記述は比喩ではなく文字通りの意味だった。辻は著書『十五対一』でも、メイミョウやラングーンの料亭や慰安所での遊興に不快感を示している。これについては当時から辻は批判を公言していたために、彼のそうした言動については複数の証言が残っており、この部分の辻の記述の信憑性は高いと思われる。. 愚劣きわまる作戦で世界の戦史に燦然と輝くであろうインパール作戦で、愚将が 「インパール作戦での日本軍兵士の第一の敵は軍司令官、第二は雨期とマラリアの蚊、第三は飢餓、そして英印軍はやっと四番目だ」 (P. この記述はインパール作戦が失敗に終わり、ビルマではイラワジ会戦が生起していた頃と思われる。前線で死闘が演じられている中、ラングーンの方面軍司令部の高級将校は、仕事が終わると翠香園の芸妓の元に「帰って」いた事が判る。芸妓のことを高級将校の「現地妻」と形容した兵の回想があるが、まさに的を得た表現だろう。この頃、河邊は方面軍司令官を離れているが、このような習慣がいきなり後任の木村兵太郎中将の時に始まったとも考えにくい。 ビルマ方面軍の風紀紊乱具合については、様々な記述が存在する。『牟田口廉也』でも参考文献として引用されている後勝『ビルマ戦記』にも、毎晩賑わう翠香園の話が載っている。この事はブログ記事でも指摘されているが、重要な記述なのでこちらでも引用する。 後勝(うしろまさる)は、ビルマ方面軍の参謀だった人物だ。広中氏が主張するように、前線の宣伝ビラで惑わされるとは考えにくい。毎晩繁盛していたという記述があるが、広中氏は著書に参考文献として引用している以上『ビルマ戦記』を読まれているはずなのに、なぜかこの証言を取り上げていないのは不可解だ。しかもこの話には続きがある。1945年5月25日に前線からビルマ方面軍司令部のあるモールメン(この頃にはラングーンは放棄されていた)に戻った後は、ラングーンを出発する際に手配していたモールメンへの軍需品の船舶輸送がされておらず、軍需品はラングーンに放置されたと聞き愕然とする。その理由はこうだった。 これだけ読んでも意味が分かりにくいかもしれない。「作戦課長直轄の特殊部隊」とはなにか? と言うのも、後は意図的に直接の表現を避けているからだ。上記で引用した『ビルマ戦記』は、年の新装版で広中氏もこれを参考文献にしている。ところが、『ビルマ戦記』の初版は1953年の出版で、新装版とは構成や内容が大きく異なっており、新装版の曖昧な表現の部分がズバリと書いてある。初版ではこのように書かれている。 医薬品等600トンの物資を置いて、翠香園の慰安婦を含めて婦女子を輸送したのだという。もちろん、婦女子を優先して安全な場所に逃がすという行為は批難されるべきものではないと言えるかもしれない。しかし、後はビルマ方面軍時代に、司令部高官の翠香園の慰安婦への寵愛っぷりを見ており、そうとは思えなかったのかもしれない。 この後の記述について、同じくビルマ.

腹部切開(帝王切開ではない)により、子宮外妊娠を治療した 記述を読めば判る通り、この記述をした大谷は医師や看護師ではなく、手術の準備をした兵という立場にある。医学知識はそれほどなかった可能性があり、また戦後20年以上を経て記憶が曖昧になり、医学的に怪しい記述になってしまったと思われる。ただ、合理的に誤りを説明できる記述ではあった。 では、この証言そのものの信憑性も怪しいだろうか? この証言に出てくる「閣下(引用者注:もちろん牟田口のこと)専用の女」を診断した軍医部の大川大尉、手術を執刀した室屋大尉と思しき人物は、この『ビルマ戦陣. 話を最初に戻そう。広中氏の『牟田口廉也』の、これまでインパール作戦等の責任を負わされてきた牟田口個人ではなく、「愚将」を生んだ日本陸軍という組織の問題を明らかにするという問題意識は、筆者も支持するものだし、『牟田口廉也』はその目的をある程度達することができていると思う。しかし、その販促活動として広中氏が展開されていた記事やイベント等で見せた態度は、牟田口の数々の逸話の責任を高木俊朗という個人に押し付けるという、広中氏が批判してきた個人への責任転嫁と同じ徹を踏んでいるように思えてならない。 また、筆者はここまで、第15軍やビルマ方面軍全般の醜聞についての証言を提示してきたが、はっきり言えばこれら醜聞自体はそれほど重要ではない。極論を言えば、料亭で遊興に浸っていようが、大敗を喫することなく、数万の兵を無事に祖国に帰すことができる司令部ならば、そちらの方が遥かに良い。問題は、一つの戦線を崩壊させ、多大な死者を出したビルマ方面軍が、その方面軍全体で腐敗がまかり通っていたという点だ。 結論を言えば、牟田口個人だけでなく、牟田口の第15軍を含めたビルマ方面軍の高級将校全体に、腐敗が蔓延していたということになる。インパール作戦と同じく、牟田口個人が代表的な人物かのように言われることが多かったが、ビルマ方面軍、そして日本陸軍という組織自体の問題だったのだ。その意味で、広中氏の問題意識と通底するものがあると思う。 繰り返すが、筆者は新書『牟田口廉也』における、広中氏の姿勢を支持している。しかし、著書から外れた部分で外してしまった感は否めない。広中氏を含め、今後の牟田口廉也や日本軍の問題について、研究のより一層の進展を願いたい。 【引用写真】 現在のメイミョウ写真(Hybernator撮影 CC-BY-SA-3. 世界の気になる歴史アレコレをまとめたサイト. セ・リーグの監督を査定してみた【年版】.

クラス群雄伝 異世界でクラスメートと覇権を争うことになりました── | 愚将 (RYOMA)のページです。アルファポリスは、誰でも無料で小説を読めて、書くことができる小説投稿サイトです。ファンタジー、恋愛、キャラ文芸、ライト文芸、BL等、様々なカテゴリのWeb小説が充実。書籍化作品の. · ソフトバンクの4年連続日本一で幕を閉じた今年のプロ野球。前評判通り大本命が強さを発揮したシーズンと言えるが、球団ごとに見ていくと. 勝頼は信玄の四男として生まれました。母は諏訪御料人とよばれた信濃諏訪の領主・諏訪頼重の娘です。 諏訪御料人は14歳のときに信玄の側室に迎えられましたが、この輿入れは決して平和的なものではなく、信玄が諏訪氏を滅ぼしたうえで、自らの子を諏訪惣領家の後継ぎとするためのものだったといわれています。 そうして輿入れの翌年誕生したのが勝頼だったのです。 そのため、勝頼は信玄の息子の中で唯一、武田氏の通字である「信」の字をつけられていません。 一説には、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に、「頼」は母・諏訪氏の通り字に由来しているといわれています。 このことからも、もともと勝頼は武田氏の後継ぎ候補ではなく、むしろ諏訪氏の後継者としての役目を期待されていたことがわかります。. これに関しては、牟田口に批判が多く集まっている向きは否定できない。しかし、広中氏が批判している当の高木は、清明荘の第15軍に加え、ビルマ方面軍の翠香園についての批判も行い、ビルマ方面軍全体の問題として提起している。また、高木のインパール5部作の終盤に次のように書かれている。 この後、南方軍司令官の寺内寿一元帥、首相で陸軍参謀総長の東条英機大将、インパール作戦の具体化を行った第15軍の木下秀明大佐と続いて批判しており、高木は牟田口個人の責に負わせてはいない。戦後、あまり表に出ることの無かった河邊と比べ、牟田口は自分は間違っていなかったとマスコミ行脚を繰り返す等の露出が多かったことで、逆に注目された可能性があるのではなかろうか。その結果、かなり多いビルマ方面軍の醜聞が、牟田口個人のものと混同されてしまったのではないだろうか。 また本記事でも注意を要することであるが、インパール作戦の失敗後、牟田口と河邊は、それぞれ第15軍司令官、ビルマ方面軍司令官の職を解かれている。証言の中には、彼らが在任時のものもあれば、詳しい日時が不明なものもあり、すぐに牟田口・河邊に結びつけるのは早計である。. 1942年6月5日から6月7日(日本時間) ミッドウェー島付近で行われた海戦.

勝頼の名前を教科書でみるのは、長篠の戦いだけなので、信玄の死後10年とたたずに武田氏を滅亡させてしまったというイメージが強いですが、勝頼には猛将としてのエピソードがいくつかのこされています。 元服の翌年、永禄6年(1563)のこと、信玄が上野の箕輪城を攻めようとしたところ、敵の偵察部隊とみられる武者5騎が、陣営に近付いてきました。これに気付いた勝頼は、秋山紀伊守とたったの2騎でこれを追いかけ、1騎を斬り落としたのです。 その後深追いが祟って、50騎ほどの敵に囲まれてしまいましたが、援軍が駆けつけたため勝頼は危地を脱することができました。 無謀さや詰めの甘さも感じられる話ですが、勝頼の若武者ぶりをほめたたえないものはいなかったといわれています。 また、天正2年(1574)に家康の支配下にあった高天神城を勝頼の大軍が包囲した時のエピソードは飛ぶ鳥落とす勢いの勝頼の活躍がわかります。 この高天神城は信玄が攻め落とすことができず、撤退した過去をもちます。 勝頼はこの城の弱点を巧みにつき、ひるむことなく突き進み、遂には調略をめぐらせ、落城させてしまったのです。. 第二次世界大戦の愚将ワースト3。【優勝】 東條英機【準優勝】 寺内寿一 ・黒島亀人【3位】 陸軍3バカ上層部のバカ共に文句も言えず、犬死にさせられた若者たちの無念を晴らすべく、「あえて」ボロクソに批判しようと思う。. · ソフトバンクの4年連続日本一で幕を閉じた今年のプロ野球。前評判通り大本命が強さを発揮したシーズンと言えるが、球団ごとに見ていくと. 愚将としては牟田口廉也ですね。 牟田口廉也 - Wikipedia 無謀で有名なインパール作戦の立案・指揮を行ったことで有名です。 その悪名の高さは今もってメディアを賑わせていて、この場で説明する必要さえないくらいです。. · ソフトバンクの4年連続日本一で幕を閉じた今年のプロ野球。前評判通り大本命が強さを発揮したシーズンと言えるが、球団ごとに見ていくとそれぞれ収穫と課題があったことは. 天正10年(1582)、姉婿の木曽義昌が織田に寝返ったことを皮切りに、親族衆の筆頭格・穴山信君の離反、郡内領主・小山田信茂の裏切りに遭います。 勝頼は最後侍婢ら50余名を引き連れ、甲府の東にある田野の小高い丘の上で自刃しました。 こうしてみると、始めこそ血気盛んともてはやされた勝頼でしたが、晩年は家臣の反対を押し切りながらの苦しい状況にあったようです。 なんだか黒田勘兵衛の息子・長政を思い起こしてしまうのは私だけでしょうか。長政も偉大すぎる軍師を父に持ち、その父を越えるべく時に無謀とも思える戦を行う人物でした。 勝頼も偉大すぎる父・信玄の背中を追い続けた、そんな生涯だったのかもしれません。.

堕胎しようと掻爬を行おうとしたが、子宮内に胎児がいないため子宮外妊娠と判明 3. 第二次世界大戦世界の凡将・愚将をは誰だと思いますか。日本ドイツイタリアイギリスフランスアメリカソ連 以下の7ヶ国からそれぞれ凡将・愚将を上げてください。 日本はやはりインパールの牟田口廉也が筆頭です。こいつよりも愚か. 世界の名将愚将列伝 第7回「源義経~兄に愛されなかった男の悲劇」 この人に関しては「判官びいき」(弱い者に味方すること)という言葉になったぐらい有名な人物なので、今さら詳しく解説する必要もないでしょう。. See full list on news. See 世界 の 愚 将 more results. しかし、偉大な父さえ落とせなかった城を落としたことは、勝頼を調子づかせてしまったのかもしれません。 この戦勝祝いの宴の席で、盃を受けた武田四天王の一人・高坂昌信は「この盃こそ、御家の滅びの盃」と漏らしたといわれています。 昌信は慎重な采配をとることで有名で、「逃げ弾正」の異名をとった人物です。 武田氏の軍学書として有名な『甲陽軍鑑』は昌信が長篠の戦いの後に武田氏の行く末を危惧した「諫言の書」がもとになっているといわれており、慎重さに欠けいつになっても若武者のように攻め続ける勝頼を危なっかしく感じていたことが伝わってきます。 そして昌信の予感が的中したように天正3年(1575)、勝頼は長篠の戦いで宿将の大半を失う大敗を喫してしまったのです。撤退を勧める重臣たちの意見を振り切っての出陣でした。 さらに天正8年(1580)、勝頼が意気揚々と落城させた高天神城が家康に包囲されてしまいます。長篠の二の舞となってはいけないと出陣を止められた勝頼は、その意見を受け入れ、翌9年高天神城は再び家康の支配下に入ることとなりました。. See full list on historivia.

Amazonで三村 文男の米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉論」の虚妄を糺す。アマゾンならポイント還元本が多数。. 2 「自我」とか「分離」とか、難かしげな言葉に振り回されないでね 年12月11日 スタピ会員になって、全てのコンテンツを楽しみませんか?. 0) 乃木希典は名将か、愚将か。伝説の書『名将 乃木希典』がPHP新書で復刊するにあたり、その一部をご紹介。. 広中氏は、インパール作戦中に牟田口が毎晩遊興に浸っていたとする話の初出を高木俊朗の著作によるものだと見ている。ただ、この広中氏の見立ては、かなり強引なものを感じる。次はブログ記事でも指摘されているが、重要なポイントでもあるため、こちらでも記述する。 高木俊朗は陸軍報道班員として従軍取材を行い、インパール作戦にも従軍している。戦後、様々な証言を集めたルポルタージュとして『インパール』を発表。高木のインパール作戦を扱った5冊はインパール五部作と呼ばれている。そして、広中記事では高木の記述を次のように引用し、評価している。 上記では、高木の著作の記述を「出典が不明確」としている。しかし、「(引用者中略)」で略された部分の冒頭を見てみよう。 なんと出典が書いている部分が略されていた。この部分を略して「出典が不明確」とするのは、些か不誠実な態度ではないか。もっとも、高木も成田記者の記述とはしているが、しっかりと出典を示しているわけではない。しかし、この記述自体は確かに存在する。この成田記者の記述は『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』に収録された「運命の会戦」であることをブログ記事は指摘している。筆者も確認したが、牟田口や第15軍首脳の遊興具合について、高木の記述は概ねここからの引用であると思われた。 『秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇』は1954年の出版であり、高木が牟田口らの遊興について書くよりずっと前である。この事から、広中氏の主張する高木が牟田口を辱める話を創作したという説は成り立たないだろう。また、この他にも高木より前に第15軍、ビルマ方面軍の遊興に触れた記述はないか確認した所、以下のような記述があった。 先の成田記者の記述と同じく、出典は『秘録大東亜戦史』からで、今度は読売新聞の若林記者によるラングーンの翠香園に関する記述だ。朝日新聞に続いて、読売新聞の記者までビルマ方面軍の料亭話を書いている。これらメディア関係者による記述を裏付ける、軍人側の記述が残っている。先に登場した中井が、情報将校としてメディア関係者の歓迎会に出席した時の話だ。. 「昭和の名将と愚将」 世界 の 愚 将 半藤一里・保阪正康著 帯広告:敗軍の将たちの責任そして無責任 文春新書 年2月 初版 ¥740 世界 の 愚 将 本書は太平洋戦争にかかわった代表的な将軍ら22人を、名将13名、愚将9名に分けて、対談風に論じた内容。.

愚将だけでなく、クズです! kur*****|9時間前佐藤師団長が独断で命からがら撤退して鬼の形相で牟田口を斬ろうとしたのも良くわかるってもんさ。 馬鹿共のお陰で現場の人間が苦しむのは今も同じだ。.

世界 の 愚 将

email: eneze@gmail.com - phone:(483) 804-9752 x 9787

初心 貫徹 -

-> じゃり ン 子 チエ 映画
-> Csi フィンレイ 死亡

世界 の 愚 将 - なくなる


Sitemap 1

ただ の 風邪 - ガンダム